March 23, 2017

Leave to posterity

Responsibility to leave to posterity the tradicional art of War – Niten Ichi Ryu

by Soke Shihan Kiyoshi Yoshimochi 12th generation

兵法二天一流の正統を後世に残す責務
兵法二天一流正統第十二代 宗家師範 吉用 清

かつては吉川英治や小山勝清が、今は井上雅彦の「バガボンド」、最近では琴奨菊の大関昇進の口上で「萬理一空」という言葉で知られる剣聖宮本武蔵が、生涯六十数度の決闘において勝利してきた剣技と、自身の理想の剣をまとめ上げたのが兵法二天一流である。世間一般では二刀流が一人歩きをしているが、一刀太刀勢法十二本は自身実戦の場において使った刀法を集大成したもの、小太刀勢法七本、二刀太刀勢法(五方)五本は、五輪書「地の卷」で述べているように「一命を捨つる時は、道具を残さず役にたてたきもの也。道具を役に立てず、腰に納めて死する事、本意に有るべからず」から生まれたもので、武蔵理想の剣技である。棒術は棒合棒勢法七本、太刀合棒勢法十三本からなり、晩年熊本の地で塩田浜之助という棒をよくする者と仕合った際の技に改良を加え二天一流棒術としたものである。この多岐に渡る(合計四十四本)全ての技を以って兵法二天一流といい、これは正統宗家に一脈不断にして伝えられたものである。
武蔵は、これらの技と共に日々の鍛練と禅の修行を通して到達した境地を著した「五輪書」には、精神面にも重きを置いた言葉が書かれている。その中の一つ、「萬理一空」は「一つの真理や目的に向かって精進し続け、目標を見失わずにその道に励む」等に使われるようだ。私が書物の言葉を借りながらあえて付け加えさせて頂くなら、「日々稽古、鍛錬を行い、技に熟達することはもちろんのこと、鍛錬を積み重ねることにより、『の目』つまりあるがまま見る視覚的な目を通し、『の目』観察、感じることで物事の本質を見究める目を磨いて、迷いの晴れたところに悟りの境地である『空』がある。つまりは己の剣理に迷いが無くなり、何事にも動じない心が養われる」と解釈し、お互いの力量を認め合い戦わずして別れる、相い抜けの兵法「実相円満」の境地にも当てはまる。
武蔵は、十三歳から二十九歳の佐々木小次郎との巌流島の決闘まで、六十数度の試合で負けしらず、日本中にその名を知られる剣豪となったが、「常に兵法の道を離れず(独行道より)」と書いているように、気の休まることが無かった生涯だった。しかし、晩年熊本の地で、細川藩の菩提寺である泰勝寺の春山和尚によって禅の道に導かれ、ようやく心の安らぎを得たことで「萬理一空」の境地に至ることができ、剣と禅の道の融合、つまりは二天一流の心技となって、今日まで受け継がれているのである。武蔵自身「萬理一空の所、書きあらはしがたく候へば、自身御工夫なさるべきものなり」と言っている。
私自身、子供のころから父(五所元治)より剣道居合道の手ほどきを受けて来たが、「打ってやろう、上手く演武しよう」と雑念がわいた瞬間、今でも平常心ではいられなくなる。心技一体の境地にはまだまだ遠い。
では、なぜ熊本にあるはずの兵法二天一流の正統が大分県の宇佐の地にあるのか、この事を語るには八代宗家 青木規矩男先生の事を書かねばならない。
青木先生は明治19年(1886年)生まれで、幼少のころ兵法二天一流に出会い、山東清武七代宗家に剣の手ほどきを受けた。西南の役に薩軍で参戦し、長男を田原坂で亡くしていた山東先生から、孫のように可愛がられたそうである。長じて熊本商業学校を卒業し、母校で教鞭をとっていたが、諸事情のため台湾に渡ることになる。
清長忠直(九代宗家)は、昭和12年(1937年)、台湾の軍隊に入隊する。翌昭和13年(1938年)、台中市の剣道大会で優勝した折、参加者の一人から台中商業学校の教師で、兵法二天一流正統第八代宗家、並びに、関口流抜刀術第十四代宗家である青木先生の存在を知らされ入門する。
終戦後、郷里の宇佐で中学校教師となった清長は、昭和26年(1951年)、同じく中学校教師の私の父五所元治を誘い、台湾から帰国し熊本に戻られていた青木先生の元を訪れ、直弟子として、毎週末熊本に通い修練に励んだ。
のちには、青木先生は宇佐に指導に出向いて下さるようになり、時には御夫婦でも来られ、清長邸や母の実家である吉用家に同居していた父・五所の元に宿泊をして、熱心に宇佐の剣士にも指導を行った。
先生が我が家に宿泊される時は幼かった私も心が高ぶり、誇らしく思えたことを思い出す。もてなしに対する返礼の気持ちとしてなのか、国宝級の書画数点を残した流祖に負けず劣らず多芸に秀でていらした先生は書をしたためてくださった。その数は大小合わせて十数点に及び、額や掛軸にして我が家の家宝とし大切に保管している。
話は戻るが、昭和33年(1958年)、戦後の混乱から守るために、台湾の知人に預けていた宮本武蔵自作の兵法二天一流宗家相伝の証である、赤樫の木刀(表に実相円満之兵法・裏に寒流帯月澄如鏡の二天の極意である彫刻がある)が青木先生の手元に戻り、その年の12月8日木刀返還記念剣道大会を宇佐の地で行い、そのとき参加した私も記念写真に写っている。
青木先生は、自身の高齢の現状を鑑み「二天を修める者は、関口流も共に修める」という基本を受け継ぎ、日夜精進鍛錬を重ね二天一流と関口流に熟達していた清長・五所に命がけで全ての形を伝授し、両名を兵法二天一流並びに関口流抜刀術の免許皆伝者とし、そして清長を二天一流九代宗家とし、五所を八代宗家代見とした。これが昭和42年(1967年)のことである。
同年、青木八代宗家直筆の「宮本武蔵『誠心直道』」が刻まれた石碑を宇佐神宮境内に建立し、その碑前において相伝式が執り行われた。これにより流祖宮本武蔵玄信先生より一脈不断にして伝わってきた兵法二天一流の正統が、熊本から宇佐の地に移されたのである。
また、宗家相伝の証である赤樫の木刀は、第十代今井正之宗家の意志により、宇佐神宮内に管理保管されている。
それから時を経て、清長忠直の心技は子息 清長文哉第十一代宗家へと受け継がれ、清長・五所の門弟は十二代宗家の元、一つになり今日を迎えている。
青木先生より頂いた「萬理一空」「寒流帯月澄如鏡」等の、高齢とは思えぬ力強い書を拝見するたびに、熊本から宇佐の地に正統宗家を移してまでも、流祖宮本武蔵の技を守り抜きたかった青木先生の強い願いが感じ取られ、身の引き締まる思いがする。最近では国内は勿論のこと、遠く海外(ブラジル・スペイン・アルゼンチン・チリ・メキシコ・ポルトガル・フランス・スイス・アメリカ)からの入門者も多く、裾野の広がりをみせており、地元住職さんのご好意により専用の道場も出来たことで益々隆盛をきわめている。
正統の技を受け継ぐ唯一の道場であるという自負と共に、私は十二代宗家として、体得した全ての技を後世に残す責務を担い、後継者を育てつつ、門弟共々日々努力精進するのみである。

碑文 「誠心直道」(せいしんちょくどう)について

8代宗家 青木規矩男先生は9代に相伝するにあたり、五輪書の空の卷の一節「直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ」(すぐなるところをもととし、まことのこころをみちとして、へいほうをひろくおこない)から「誠心直道」の言葉を導きだし、二天一流の正統の「技」を後世に残したいという願いを込め、日々鍛錬修業に励む宇佐の剣士の指針となるようにと石碑に刻んだのである。